(生物系)博士はつらいよ

某国立大学博士課程学生の仮面を被っているケツドラマーの日常

自分の言葉で書け…自分の言葉とは?

「パクリと影響は違う その違いが分からないやつは創作から手を引かないといけない」

月に吠えらんねえ講談社 アフタヌーンKC)2巻 P. 20より

 

私がいた小学校では、毎年生徒ひとりひとりに自由作文を書かせて、その中から優秀だと思われるものをまとめて文集として発行する文化があった。1年生と2年生のとき、私が書いたものがその文集に掲載された。それぞれ、逆上がりができた喜びを書いたものと、遠足の思い出を書いたものであったと思う。多少文章がくどく、また比喩表現がくさすぎて(例:皆僕のことを待っていたかのように←いやお前が遅刻ギリギリで登校しただけだろ 風のように走った←実際は遅刻しないように必死で走っていただけでそんなに爽やかなものではない)ツッコミ所は満載なのだが、あれらはたしかに自分の言葉で書かれたものであったように思う。

 

3年生のときのテーマは、詩であった。作文ならまだしも、詩などろくに書いたこともない。なのに、急に詩を書けとはなんだ。とんだ無茶ぶりである。作文ならばある程度論理構造を組み立てながら書いていくことができるが、詩はそういう類のものではない。感情が奔るままに自然に言葉が紡がれていく。詩は、絵画や彫刻のような純粋芸術に属するものなのだ。書こうと思って書くものではなく、書かずにはいられずに書いてしまうものだ。考えあぐねた私は思いついた。上手い人の詩を真似て書けばいいのではないか。早速、私はクラスのある子が書いた、この詩はいいと感じたものを参考にして提出用の詩を書き上げた。後日、各々が書いた詩を何人かで批評し合う会があった。そこで私は口々に「これは○○君のパクリじゃん」と言われることとなる。

 

なぜそのように評価されてしまったのか。私の書いた詩は、○○君の詩の言葉を変えただけのものだったからである。形式はそのままに、一つ一つの単語を別のものに置き換えて、意味が通じるように手を加えただけ。パクリと言われても仕方がないというか、ちょっと読めば誰でもパクリであると気付く。

 

借り物の言葉から自分の言葉にするためには、何が必要なのか。おそらく、咀嚼が必要なのだと思う。借り物の言葉の中に込められた魂をかみ砕いて、自分の解釈を加えてみる。取り入れるべきものは取り入れ、残りは吐き出す。そうして、自分の血肉とする。自分の言葉となるものは自分の外にしか存在しないから、インプットを怠ってはいけない。だが、咀嚼するプロセスがないと、自分の言葉となり得るものもただただ排泄されていってしまうのだろう。

 だから、創作は苦しいものなのかもしれない。

 

すば